国立科学博物館が所有するYS-11の量産初号機が茨城県筑西市で保管、公開されることになった。初の量産型という価値を有しながらもスクラップの危機も経験した同機。やっと安住の地を手に入れた量産初号機の最新の姿をご紹介したい。
▲ここからは移設作業の様子をご紹介。この2枚は羽田での分解作業時の撮影で、分解前に機体全体をジャッキアップしたところ。プロペラの取り外し作業。今回の移設を通して図らずもリバースエンジニアリングが実施されたわけで、機体の構造や、試作機から量産型への変遷など、得られた知見はかなりのものと思われる
■YS-11の量産初号機
戦後初の国産旅客機YS-11。試作機の2機に続いて生産されたのが初の量産型となる製造番号2003号機(機体番号はJA8610)だ。この“量産初号機”は1965年に運輸省(当時)航空局に納入され、以来、1998年に引退するまで、航空局一筋に、日本各地の航空管制施設、レーダー施設などの保安維持のためのフライトチェッカーとして活躍してきた。戦後初の国産旅客機、しかも量産型の初号機という価値のある機体であったため、機械遺産や重要航空遺産にも指定され、引退後は国立科学博物館(以下科博)が引き取り、羽田空港で各部が稼動する動態状態で長年にわたり保存されてきた。
■置き場がない! お金もない!
ところが羽田空港は初号機にとって安住の地ではなかった。昨今、羽田空港は国際空港としての機能を充実させているが、その国際化の進展にともなって量産初号機の駐機スペースが確保できないという事態に陥った。機体の価値は誰しもが認めるところだが、保管場所がなくてはスクラップの危機に直面する。科博で産業遺産などを担当する産業技術史資料情報センターの鈴木一義センター長の尽力の末に、茨城県筑西市にある複合レジャー施設、ザ・ヒロサワ・シティが保管場所を提供すると申し出てくれて、初号機の未来もこれで安泰かと思われた。
ザ・ヒロサワ・シティへの引越しのために羽田での分解作業が始まったのが2019年9月。分解作業を担う元整備士の方々を集めたり、治具類を確保したりなどの苦労はあったものの、作業自体は概ね順調に進んでいたが、そこへ降りかかったのが未曾有の感染症、COVID-19だった。科博も一時休館を余儀なくされ、かきいれどきの夏場の特別展の開催も不可となり入館料収入の激減が予想される事態に。筑西市への搬送は2020年3月末に終えていたものの、このままでは再組み立ての費用が捻出できない懸念が出てきた。そこで頼ったのがクラウドファンディング。ネット上で企業や個人に寄付を募ったところ、こんな社会情勢にも関わらずほぼ目標通りの約3000万円の寄付を得ることができた。
■再組み立て完了
こうした曲折を経て、ついに昨年の12月にザ・ヒロサワ・シティでの機体の再組み立てが完了し、今後は展示スペースの造作などを経て一般に公開される見通しだ。機体そのものの価値に加え、今回の移設プロジェクトを通したドラマをも背負うことになったYS-11の量産初号機。一般公開が始まったあかつきにはぜひ筑西市を訪れて、そのバックグラウンドともども航空遺産たる貴重な姿を堪能していただきたい
写真/ 国立科学博物館、ザ・ヒロサワ・シティ、和田一也、菅野泰伸 文/菅野泰伸
YS-11稼働中!
ここでは在りし日のYS-11の勇姿を集めてみた。誌面に限りがあるため国内エアラインを中心とした一部の機体しか掲載できないが、それでも多くのユーザーに愛されたYS-11の豊富な塗装バリエーションを感じてもらえると思う。
▲YS-11は沖縄の翼、南西航空でも活躍した。陸続きでない南西諸島では空路は必須の移動手段で、YS-11はまさに沖縄の人たちの足であった。上は1978年7月に旧石垣空港で撮影されたJA8775“ひるぎ”とJA8794“ふくぎ”で、関係の深かった日本航空に準じた塗装。下左はカラーリングを刷新した後期塗装で、オレンジをメインにした南国情緒あふれるデザインとなった。1987年3月、那覇空港(JA8710)。下右は日本トランスオーシャン航空に社名を変更した同社YS-11の最晩年の姿。前出の“ひるぎ”と同じ機体で、撮影は1997年3月、与那国空港
写真/ 和田一也、菅野泰伸