日本を代表する艦船「航空母艦 赤城」ってどんな船? ビーバーコーポレーションのプラモデルとともに紹介!!【いまさら聞けないすごいヤツ】
2024.12.19 日本海軍
航空母艦 赤城
イラスト/大森記詩
「名前は知っているけどどんなものなんだろう?」「いまさら聞くのもはずかしいなぁ……」なんて思ってしまう有名な飛行機や戦車、車などのモチーフをサクッと読める解説とイラスト、オススメのプラモとともにご紹介する本連載。
今回は、日本を代表する艦船のひとつ「航空母艦 赤城」をご紹介します。これぞいまさら聞けないと思わせてくれるモチーフですね。真珠湾攻撃を成功させ、太平洋戦争序盤で大暴れした赤城とはどのような船だったのでしょうか? 早速見ていきましょう。
日本海軍
航空母艦 赤城
基準排水量/29500トン
全長/260.67m
水線長/250.36m水線幅/31.32m
飛行甲板/249.17m×30.48m
エレベーター/3基
出力/133000馬力
速力/31.2ノット
乗員/1630名
兵装/20cm単装砲 6門、12cm連装高角砲 6基12門、25mm連装機銃 14基28門
搭載機/常用66機、補用25機
真珠湾攻撃時の保有機/零式艦上戦闘機 21機、九九式艦上爆撃機 18機、九七式艦上攻撃機 27機
航空母艦 赤城
解説/宮永忠将
戦艦から改造された巨大空母
発明されたばかりの航空機が軍事転用されるや、瞬く間に進化していった第一次世界大戦。この時期には海上でも軍用機を使えるようにと試行錯誤されたのだけど、戦争が終わる頃には最上甲板を離着陸可能な滑走路に変えた航空母艦に行き着いた。
そんな黎明期の空母と航空機の関係が形になった戦後、列強各国では際限ない軍備拡張を抑えようとの動きが始まる。そして、海軍艦艇の保有割合を国ごとに決めた上で、建造中の大型艦はすべて廃棄とするワシントン海軍軍縮条約が締結された。当然、空母も制限される。
ただし、多くの建造中の戦艦を廃棄するアメリカと日本には、代償として建造中の戦艦の一部を空母に改造することが認められた。これを受けて、日本で空母転用の対象となったのが「天城」と「赤城」であった。この2隻は、装甲を薄くして速度性能を追求した巡洋戦艦であったため、速度が必要な空母に改造するのにぴったりであった。ところが1923年9月の関東大震災により、横須賀で建造中の「天城」が大破してしまい、呉で建造していた「赤城」だけの完成となったのである。
こうして1927年3月に就役した「赤城」は、前例のない巨大空母であった。なにせ日本初の本格的空母「鳳翔」の基準排水量が1万トンに満たず、世界でも似たり寄ったりの状況の中で、「赤城」はいきなり3万トンを超えてしまうのだから。日本海軍はこの巨大空母を三段甲板空母として完成させた。運用する艦上機のサイズや用途に合わせて使用する甲板を変えることで、短時間に多数の機体が発艦できるようにと考えたのだ。ア・バオア・クー戦でジオン軍の苦しい前線を支えていたドロス級超大型空母のイメージだ。しかし実際には使いにくく、後に一段甲板に改装されている。
絶頂の中で海底に消える
アメリカとの戦争を前にした日本海軍は、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけるため、保有している空母6隻を集めて第一航空艦隊を編成した。指揮官である南雲忠一海軍中将の名を取って南雲機動部隊とも呼ばれる、世界初の空母機動部にて、「赤城」は旗艦を務め、1941年12月の真珠湾奇襲攻撃を見事に成功させたのである。その後も蘭印攻略作戦、インド洋侵攻作戦と、太平洋戦争の緒戦に「赤城」は南方の海で暴れまわった。
しかし1942年6月に実施されたミッドウェイ島攻略作戦では、計画の甘さと作戦指導のまずさが重なって南雲機動部隊は大敗。「赤城」をはじめ参加空母4隻がすべて撃沈されるという、信じられない敗北を喫してしまう。機動部隊の主力を失った日本は、次第に受け身になり、太平洋戦争に短期決戦で勝利する術を失ってしまったのである。
だが、もし「赤城」が生き残っていたとしても、その前途は厳しかったかもしれない。戦争も中盤になり登場する新型機は大型化、高性能化していたので、空母にも高性能が求められた。「赤城」の場合、大きさは充分であったけど、元が戦艦なので、翔鶴型のような専用設計の新型空母に比べて使い勝手が悪く、速度も条件ギリギリであった。かといって、戦争中に性能強化の改修工事をしている余裕もない。だから「赤城」はその強さの絶頂期に沈んだ空母という評価になるのかもしれない。
淵田美津雄
1921年に奈良県に生まれ、海軍兵学校第52期卒業。1934年に館山海軍航空隊の分隊長に着任してから航空分野に専従し、1939年11月に空母「赤城」の飛行隊長となる。かねてより空母とその航空隊は集中運用すべしというのが淵田の主張で、それが実現した真珠湾攻撃時には「赤城」飛行長であると同時に、全攻撃隊の指揮官という重責を担い、九七式艦攻に搭乗して出撃。第一次攻撃隊にて前線で指揮し、奇襲攻撃を成功させた。しかしミッドウェイ海戦の際に、炎上する「赤城」からの脱出時に両脚を骨折する重傷を負った。以降、航空関連の要職を歴任したが、現場に復帰することはなく終戦を迎えた。
赤城の美味しいところだけをプラモデル化!
こちらは真珠湾攻撃時の赤城の艦橋と飛行甲板だけを立体化したキット。1/72スケールの零戦や九七艦攻、九九艦爆にとっての最高の台座とも言えるプラモデルです。
1/72 日本 航空母艦 赤城 艦橋と飛行甲板 1941年 真珠湾攻撃 1/16 日本海軍将官フィギュア付
●発売元/TAKOM、販売元/ビーバーコーポレーション●7645円、発売中●1/72、約36cm●プラキット
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