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第3機甲師団「スピアヘッド」のケルン市街での戦いの記録を読んでみよう

2022.06.04

[小特集]スピアヘッド 第3機甲師団とケルンの戦い 月刊ホビージャパン2022年7月号(5月25日発売)

HJ軍事選書『スピアヘッド』(アダム・マコス著)は、アメリカ軍のひとりの戦車兵、クラレンス・スモイヤーの体験を軸に第3機甲師団「スピアヘッド」の戦いを活写した名著である。とくに大きな山場となるケルン市街の戦車戦は、複数の視点から映像が残るという希有な戦車戦となり、戦史上の貴重な記録となっている。戦車砲手としてクラレンスが体験し、『スピアヘッド』にも描かれた第二次世界大戦の戦場を、第3機甲師団の戦いを中心に眺めてみたい。


第3機甲師団とケルンの戦い

解説/宮永忠将、写真/Alamy

スピアヘッド師団の編成と初陣
 第二次世界大戦の陸戦において、戦車は主役と呼べる兵器であった。先の第一次世界大戦で塹壕陣地を突破するために開発された戦車は、当初は歩兵の戦いを支援するための兵器と見られていた。しかし独裁者ヒトラーが率いるナチス・ドイツ陸軍では、戦車を支援兵器ではなく中核戦力に位置づけて戦う「電撃戦」を展開して、ポーランドやフランスなどのヨーロッパの陸軍大国を次々と撃破して、世界を驚かせた。
 このドイツの成功は、アメリカ陸軍の考えにも大きく影響した。そのひとつの回答として、ドイツ軍の戦車中心の部隊編制である「戦車師団」に倣い、アメリカも機甲師団(Armored Division)を編成したのである。
 そのうちのひとつである第3機甲師団は、1941年4月15日にルイジアナ州のキャンプ・ボーリガードで編成された機甲師団である。通常、アメリカ軍の機甲師団は軽戦車と重戦車をミックスした3個戦車大隊を中核戦力とする。しかし第3機甲師団は通常の1.5倍の戦車を2個機甲連隊に集中させた、特殊な重編制の機甲師団であった。
 1943年9月15日に部隊は前線に派遣された。翌年夏のヨーロッパ反攻に備えて、まずはイギリスに送られて、侵攻前の仕上げの訓練に従事する。第3機甲師団は「スピアヘッド」というニックネームを与えられたが、その名の通り、槍の穂先となって敵陣に突き進んでいく役割を期待されたのである。
 1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が始まるが、スピアヘッド師団の投入はやや遅れて、6月23日にオハマ海岸から内陸へと侵攻した。この頃、米英連合軍はノルマンディー地方特有のボカージュと呼ばれる濃密な生け垣を巧みに利用した、ドイツ軍の防御戦術に悩まされていた。ボカージュを壊すためにドーザー付きの戦車が導入されたが、ドイツ軍は戦車を狙い撃ちにして米軍の前進を許さなかったのだ。スピアヘッド師団も2日間の戦いで30両もの戦車を失うなど、4年以上戦い続けている歴戦のドイツ軍から手厳しい洗礼を受けていた。
 しかし7月25日にアメリカ軍が発動した「コブラ作戦」でついにドイツ軍の戦線が突破される。この危機に直面したヒトラーは敢然と反撃を命じ、ドイツ軍の反撃の矢面に立つ形となったスピアヘッド師団の第33機甲連隊では23両もの戦車を失う損害を受けた。一連の損失の責任を取る形で師団長はリロイ・ワトソン少将からモーリス・ローズ准将に交替となった。

[師団編成表]

 編制

第32機甲連隊
第33機甲連隊
第36機械化歩兵連隊
第23機甲工兵大隊
第83機甲偵察大隊
第143機甲通信中隊
第391機甲砲兵大隊
第67機甲砲兵大隊
第54機甲砲兵大隊
その他

 所属上級部隊

日付軍団
1944.7.15第1軍第Ⅶ軍団
1944.12.19第1軍第XⅧ空挺軍団
1944.12.23第1軍第Ⅶ軍団
1945.5.1第9軍第XⅨ軍団

ノルマンディーから西方要塞へ
 もっとも、反撃に出たドイツ軍の戦車部隊は連合軍の包囲網に自ら飛び込む形となった。この包囲網を閉じる重要な役割を託されたスピアヘッド師団は、8月中旬にイギリス軍と協力して作戦を成功させた。このファレーズ包囲戦でドイツ軍は重装備を失い、潰走状態となったのである。
 北フランスとベルギーを守る戦力を失ったドイツ軍を追うように、連合軍は東に向かって前進し、8月下旬には首都のパリが4年ぶりに解放された。
 この破竹の進撃の中でも、特に第3機甲師団は脇目も振らずにベルギー方面に突進した。彼らが目指すのは「西方要塞」。ドイツ軍が西からの攻撃に備えて構築していた、ドイツ国境付近を守る要塞線である。ドイツ軍が立ち直る前に、この西方要塞を奪うのがスピアヘッドの役割なのであった。
 8月25日にセーヌ川を渡った師団は、2日後にはマルヌ川を突破して、さらに前進した。ティーガー重戦車を載せてドイツに戻ろうとしていた敵の輸送列車に追いついてしまうほどの前進速度であった。この時期のスピアヘッドにとって最大の敵は、解放した先の村や町で道路上に飛び出してくる群衆の歓待であった。
 9月2日にベルギー国境を越えたスピアヘッドは、モンス、ナミュール、シャルルロワなどの重要拠点を次々に解放した。敵の組織的抵抗はなく、東に向かう連合軍と入れ替わるように、西に送られるドイツ軍捕虜の列が続いていた。
 しかしドイツ国境が近づくと、敵軍の抵抗力が目に見えて高まり始めた。小部隊の抵抗によって道路は各地で封鎖され、第3機甲師団が足を止めている間に、西方要塞には兵力が集められていたのである。ノルマンディーで撃破された部隊の再編成も進み、新しい敵部隊が出現するようになった。パンター中戦車などの装備も新しくなり、各所の敵の反撃で第3機甲師団にも出血が増えていた。そして北ヨーロッパに特有の秋の雨期の到来により、スピアヘッドは泥濘にも苦労させられるのである。

アルデンヌの戦い
 9月12日、スピアヘッドは遂に西方要塞に到達した。部隊は一旦停止して、要塞線の弱点を探る偵察と情報収集を開始した。そして同日午後にはレトゲンという名の小さな町を占領するが、これは連合軍が最初に占領したドイツ本土の町であった。
 ヒトラーとドイツ軍は西方要塞を突破至難の永久要塞と喧伝していた。しかし偵察の結果、コンクリート製のトーチカや銃座を塹壕で繋いでいるだけの貧弱な防御線であることが判明した。それでも「竜の歯」と呼ばれるコンクリート障害物は、戦車や装甲車が無理に乗り上げれば行動不能になりかねず、あるいは敵の対戦車砲の格好の的とされるため、非常に厄介な障害物であった。
 強引な突破に失敗した第3機甲師団は、歩兵と工兵の支援を受けて慎重に進む戦術に切り替えると、若干の犠牲を出しながらも14日には敵防御線の第二線まで進出した。いままでの突進速度からは考えられないほど前進は鈍ったが、9月下旬までにはアーヘンの東側、シュトルベルクまで進出した。しかし3ヵ月も戦い続けたままの部隊は疲労の極みにあり、補充を受けて戦力回復に努めなければならなかった。
 スピアヘッドが再攻勢に転じたのは11月になってからであったが、攻勢作戦に不向きな冬季に、ローエル川という天然の要害を軸にドイツ軍が構築した陣地隊を攻略するには、かなりの困難が予想された。そして実際、11月16日に始まった攻勢は大失敗に終わり、108両あった戦車は4日間の戦闘で28両まで稼働数を落としていた。
 一方、ドイツ軍もここまでは防衛一方であったが、ヒトラーは諦めていなかった。ソ連との死闘を繰り広げていた東部戦線から装甲部隊を引き抜くと、米英連合軍への大反攻作戦に投入したのである。
 ヒトラー最後の賭けとも言われる反攻作戦の舞台は、ベルギー南部、アルデンヌ地方であった。ここは深い森林と渓谷が複雑な地形を作る一帯で、軍事専門家であれば誰でも大規模な戦車部隊を投入するには不向きと判断する場所である。実際、この地を守るアメリカ軍の戦力はわずかであった。しかしヒトラーは過去にこの場所から攻勢を発してフランスを破った経験があった。さらに悪天候が続く冬なら連合軍の優勢な航空部隊が行動できないので、ドイツには有利に働くと発想したのである。
 こうして1944年12月16日にドイツ軍の大反攻作戦、アルデンヌの戦いが始まった。突然の大攻勢に最前線の米軍はパニックとなり、戦線は危険なほど押し下げられた。ちょうどアルデンヌの北方に布陣していた第3機甲師団にはすぐさま救援命令が出され、スピアヘッドは反撃に投入された最初の機甲師団となった。
 アルデンヌの戦いは非常に規模が大きな戦いであり、これまで数多くの書籍や映像作品が残されている。中でも第3機甲師団は、友軍の第30歩兵師団を激しく攻撃していた敵主力であるヨアヒム・パイパー大佐麾下の戦闘団を押しとどめ、他のSS装甲師団の行動を制約して、連合軍反撃の足がかりを作る重要な働きを見せた。「スピアヘッド」の名が伊達ではないことを、実力で証明したのである。

パーシング戦車の登場
 1945年1月にはアルデンヌ攻勢の失敗が明らかとなり、ドイツ軍は一斉にドイツ国境へと撤退。ヒトラーの賭けは失敗した。第3機甲師団は持ち場を後続部隊に引き継ぐと、ベルギーで数週間の休養と再編成に入る。装備のみならず将校から兵士にいたるまで全面的な補充が必要であったが、この時のもっとも重要な増援が、新型戦車であるT26E3パーシング戦車であった。
 1942年からヨーロッパ方面の戦いに参加したアメリカ軍は、一貫してM4シャーマンを主力戦車としていた。大西洋を超えた戦場で厖大な軍の補給を維持するには、戦車や砲弾の種類はなるべく統一されている方が良い。ドイツ軍のティーガー戦車に対抗するため、重戦車を開発する案もあったが、動きは鈍かった。攻撃力を多少強化するために武器の種類を増やすよりは、個々の攻撃力不足には目を瞑っても、数の力で押し切る方が効率的と考えたのだ。さすがにM4シャーマンの戦車砲こそ、従来の75mm戦車砲から、対戦車攻撃力に優れた新型の76mm戦車砲に強化されたが、車体には変化はない。
 対するドイツ軍戦車は、全体の数こそ少ないが、古強者のIV号戦車に加えてパンター戦車も充実し、さらにティーガー重戦車を超えるティーガーII重戦車も姿を見せていた。
 結果、米軍の戦車兵にとって、敵戦車との遭遇はかなりの確率で敗北を意味していた。ドイツ軍の敗勢は明らかであったが、それだけに非力な戦車で戦うのが恨めしい。勝利が見えた戦争で不利な戦いを強いられるアメリカ陸軍の戦車兵にとって、90mm戦車砲を搭載したパーシングは、ようやくドイツ軍の新型戦車と互角に渡り合える、待望の新兵器であったのだ。もっとも第3機甲師団に最初に割り当てられたのはわずか10両に過ぎず、当初は試験的な運用に留まっていた。
 2月下旬、スピアヘッドの兵士たちはドイツ国内への進軍を再開したが、年末から状況は一変していた。コンクリート製の陣地はどこにも見当たらず、障害物といえば道路に転がる丸太や街路樹の倒木くらいしかない。敵軍に遭遇しても抵抗は弱く、アルデンヌの戦いでドイツ軍が力を使い果たしていたのは明らかであった。
 この時期の連合軍にとって最大の障害はライン川であった。この川の流域にはドイツの主要都市が林立し、その先はベルリンまで平野部が広がっている。ドイツ軍がこの川を頼みに頑強な防衛線を敷いているのは明らかであった。
 ライン川渡河の準備として、ライン左岸のドイツ軍を一掃するため、2月下旬から連合軍はデュッセルドルフの下流域一帯でヴェリタブル作戦とグレネード作戦を実施した。第3機甲師団はこれらには参加していないが、グレネード作戦の担当戦区の南側で掃討作戦に投入された。目標はライン川を臨む歴史の町ケルンである。

ライン川渡河作戦の推移

1945年2月、第21軍集団麾下のアメリカ第9軍はグレネード作戦によってライン川西側を制圧。その際ドイツ軍はダムを放水し沿岸は氾濫によって2週間進撃が停止。この攻撃を側面から援護するためアメリカ第1軍はランバージャック作戦を発動しライン川へと進撃。その最終地点としてケルンがあった
(U.S. Military Academy)

ケルンを守るドイツ軍
 ケルン市内にはライン川の橋があるため、2月から市の行政の大半が軍の管轄に置かれていた。とりわけ兵士の橋の東側への移動は厳しく制限されていた。
 ケルンには早くから連合軍の戦略爆撃が実施されていて、前線が迫ると戦闘爆撃機も連日のように飛来して、抵抗拠点になりそうな建物を爆撃していた。その結果、多くの住民が住居を失い、50万の住民が暮らすケルン市は廃墟のようになっていた。
 この町を守るのは第81軍団隷下の第363国民擲弾兵師団、第9装甲師団、第3装甲擲弾兵師団であったが、十分な補充を受けておらず、稼働兵力は3000名程度であったようだ。
 これとは別にケルン防衛の主役とされたのが、国民突撃隊(フォルクス・シュトゥルム)の隊員たちであった。長引く戦争と敗勢の中で兵員不足に悩んだドイツでは、先に14~50歳の男子を動員して国民擲弾兵師団という部隊を編成して前線の穴を埋めていた。しかし末期になると、今度は本土防衛のために60歳までの男子が国民突撃隊として動員されたのである。彼らを指揮するのは熱意はあっても軍の経験は乏しい地元有力者や熱狂的なナチ党員ばかりであった。
 彼らはケルン市を囲む外周の道路沿いに、対戦車壕と呼ばれる深い溝や塹壕を掘る作業に従事していた。少年兵や老人兵には軍服は支給されず、かろうじて軍の所属を示す腕章だけが支給されていた。彼らの武器は第一次世界大戦の前に使用されていたような古い小銃やパンツァーファウストばかりであったが、弾薬を節約するため、射撃訓練はほとんど実施されなかった。
 だが、このように貧弱な兵力が主体であったにもかかわらず、地元のナチス党幹部はケルン死守を厳命し、3月1日に大管区指導者のヨーゼフ・グローエは女性と子ども、非戦闘員には市域からの避難を命じている。だが実際に避難する市民はわずかであった。逃げ先のあてもないまま屋外に出て戦闘に巻き込まれるよりは、建物の中に身を潜めてやり過ごす方法を選んだのだ。ケルン守備隊に抵抗力は無く、市街戦は短時間で終わり、同時にナチスの支配も終わると予想する市民も多かった。
 連合軍によるケルン攻略戦は3月2日に始まった。イギリス空軍の重爆撃機編隊がケルン市を襲い、低空から侵入する戦闘爆撃機は市の内外の防空拠点を丹念に潰していた。避難を見送った市民は、一時間も続いたこの爆撃で大きな犠牲を出すことになった。

ケルン大聖堂前で撃破されたパンター戦車

ケルン大聖堂に迫ったアメリカ第3機甲師団のM4シャーマンを待ち伏せ攻撃で撃破し、その後クラレンス・スモイヤーが砲手を務めるM26(T26E3)パーシング戦車によって撃破されたパンター戦車。第106装甲旅団所属のバーテルボース少尉指揮のパンター戦車A型で、強化型防盾のめずらしい車両

パーシングvs.パンター戦車
 3月5日早朝、第3機甲師団はケルン攻略を開始した。瓦礫に埋め尽くされた町は無人に見えたが、経験豊富な兵士たちは、敵の存在を感じ取っていた。実際、戦力を使い果たしているとは言え、ケルンはドイツ軍のホームグラウンドである。守備兵力3000名と国民突撃兵は、市内を繋ぐ二重の円形道路を陣地に変えてアメリカ軍を待ち構えていたのである。
 連合軍の情報分析は、ケルンを守る敵軍が若兵である事実を正確に掴んでいたが、前線部隊の兵士の慰めにはならなかった。彼らが瓦礫の影から発射してくるパンツァーファウストは、連合軍の戦車の大半を容易に撃破してしまうからだ。
 だが、如何なる犠牲を払ってでも前進しなければならなかった。有名なケルン大聖堂の双子の尖塔を超えた先にあるライン川には、ホーエンツォレルン橋が残っている。この橋を無傷で奪えれば、戦争終結は一気に近づく。
 スピアヘッドの兵士たちは戦車部隊を押し立てて敵の外周陣地に突っ込み、もっとも危険な8.8cm対戦車砲を巧みに排除しながら市内に前進した。抵抗拠点とおぼしき場所には無数の砲弾が降り注ぎ、戦車が蹂躙した後に、歩兵が残敵を掃討して占領地域を増やしていった。
 こうして5日の大半をかけて、アメリカ軍はケルン中心部の歴史的エリアを囲む「グリーンベルト」まで前進した。ケルン防衛が不可能であると判断したドイツ軍守備隊主力は退却しながら橋に爆薬を設置し、ナチス党幹部らは残余部隊に死守命令だけを残して逃亡していた。
 3月6日午後、第3機甲師団は残敵掃討のために、ケルン大聖堂付近まで部隊を進めた。大聖堂前の中央広場を目指してコメーディエン通りを前進するスピアヘッドの戦車部隊。しかし、広場まで約100メートル前後のところで、瓦礫の前で立ち往生をしていたM4シャーマン(76mm戦車砲搭載のM4A1)が突然身震いするようにして動きを止め、直後に炎上した。後退する友軍の時間稼ぎにライン左岸の市街地に残された、第9装甲師団の残余の、わずか3輌の戦車部隊による攻撃であった。しかしその中身はパンター中戦車2輌、IV号戦車1輌と、戦術レベルでは侮れない難敵である。
 シャーマンを仕留めたのは、ケルン中央駅の高架の下にひそんでいたパンター戦車であった。犠牲となったM4シャーマンの乗員で生き残ったのは、砲手と副操縦手だけであった。付近にいたもう1輌のシャーマンからは、仲間を救うために乗員が飛び出していたため、反撃はできなかった。
 攻撃したパンターはコメーディエン通り方面に移動して次の獲物を探していた。だが、この通りの北側の道を併走していたE中隊は友軍の異変に気づくと、虎の子のパーシング戦車を前進させた。マルツェレン通りに差しかかったパーシングは、距離100メートルで敵のパンターの側面を突く形となった。この好機にベテラン砲手のクラレンス・スモイヤーは停車を待たずに即座に発砲。初弾はパンターの右側面車体中央を貫通し、2発目は砲塔基部に命中、さらに3発目も続く。パンターの乗員は皆脱出できたようだが、うち2名の行方はいまだにわかっていない。
 3月6日のケルンでの戦車戦は、西部戦線に限らず、第二次世界大戦を通じて無数に繰り返された戦車戦のひとつに過ぎない。また、貴重な人命が損なわれた以外には、戦局の変化に何ら寄与する戦いではなかった。しかし最初のM4シャーマンが撃破される様子は、部隊に同行していた戦場カメラマンのジョージ・シルクが映像に残し、また同じくカメラマンのジェイムス・ベイツは、パーシングがパンターを葬る瞬間の生々しい映像を背後の建物から撮影していた。戦車戦の一部始終が複数の視点からの映像記録で残されるというのは、当時としては希有な偶然であり、この戦いは、戦史に刻まれることになったのである。
 このケルン大聖堂前の戦車戦と並行して、第3機甲師団は速度を上げてライン川を目指した。街路を進む車列がアメリカ軍であるのを知った住民は、白いシーツを降伏の旗代わりにして窓から掲げていた。しかしそんなスピアヘッドの兵士たちの眼前で、ホーエンツォレルン橋は爆破されて、ライン川に崩れ落ちていったのであった。

 第3機甲師団歴代師団長

1943.9.15〜リロイ・H・ワトソン少将
1944.8.7〜モーリス・ローズ准将(後に少将)
1945.3.21〜ドイル・O・ヒッキー准将
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宮永忠将

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