【第10回】『マルゾン 転生したらまるでゾンビを知らない世界でした』作・歌田年【異世界ゾンビバトル】
2025.10.27マルゾン 転生したらまるでゾンビを知らない世界でした
第28章 感染爆発
目が覚めた。
白い天井が見えた。
上体を起こそうとして、胸の奥に疼くような鈍い痛みが拡がった。
首だけを巡らし、周囲を見回した。
パイプ式のベッドに寝かされていて、周囲を白いカーテンが覆っている。右手から細い管が伸び、スタンドから下げられた点滴の袋に繋がっていた。
左側を見ると薄汚れた壁だった。
頭の近くのパイプには、コードの付いたスイッチが無造作に巻き付けられていた。ナースコールというやつだろう。
ここは病院らしい。
おれは急速に記憶を取り戻していった。
プールの中で猿座に襲われたこと。したたか殴られた挙句、胸を一突きされたこと。
死んだかと思った。
だが、おれは生きていた。
たぶん、出間が助けてくれたのだ。
ただし状態がわからない。致命的な傷でなければいいが。
唐突にお袋のことを思い出した。今のおれと同じように女子医大病院のベッドで寝ていたお袋。あっちの世界はあれからどうなっただろうか……。
胸の痛みをこらえてナースコールに手を伸ばし、押す。
二、三分ほどしてパタパタと近付く足音がし、カーテンが開いた。白い服を着た若い女性看護師が一人入ってきた。
美人だった。もちろん、おれ基準のである。ここではそうでもないのかもしれない。
「ようやく気が付かれましたか。ご気分はいかがですか?」
看護師は媚びたようにニッコリ笑って言った。
「まあ……まあです」
声が掠れてよく出ない。
喉の粘膜が乾燥して引っ付いているようだった。咳払いをしたら、飛び上がるほど胸が痛んだ。
「点滴、終わりましたね」
「あの……ここはどこです?」
と、顔をしかめながら訊いた。
「警予隊中央病院です。三宿の」
三宿──といえば東京。いつの間に静城から運ばれてきたのか。
「おれは……いつからここにいるんですか?」
「五日ほど前からです。ずっと眠ったきりでしたよ」
「怪我の……具合は?」
「あ、間もなく主治医の先生が来ますので、その時にお訊きください」
看護師がおれの腕から点滴の管を外し、道具一式を片付け終わった頃──尿道にはまだ違和感があるが──白髪に丸メガネの老医師が無造作にカーテンを全開に引き開けて入って来た。
「やあ、気分はどうですか?」
「上々……です。──おれの……怪我の具合はどうなんですか?」
「うむ。君は直径十八ミリの金属棒で胸を貫かれたんだ。プールへ落ちた際に廃材でも突き刺さったんだろう。ニューチタンの装甲を貫通していたから、超鋼合金だね。恐らく炭化タングステンあたりだろう。なぜそんな廃材がプール内にあったかは知らんけど」
老医師は軽い口調で言った。
そうか。おれの単独事故と見做されているようだ。猿座は出間に気付かれないうちにあの場を去ったのだろう。
「しかし奇跡だね。傷は一一〇ミリの深さに達していたが、うまいこと右の第五、第六肋骨の間を通り、心臓と肺の隙間を縫っていた。他の臓器も太い血管もまったく傷付いていない」
「……本当ですか」
「いや、驚いた。君は内臓逆位だったんだな」
「ナイゾウ……ギャクイ?」
「ん? 今まで自分で知らなかったのか。まあそういう人もいるか。──すなわち内臓がまるで鏡に映したように左右逆の位置にあることを〝内臓逆位〟という。百万人に一人の割合だ。君の心臓は左に少し傾いている。刺突があと一〇ミリ左にずれていたら致命傷だったよ。君は本当に運がいいな」
なるほど、ここでは内臓まで逆なのか。頷ける話だった。
確かにおれは運がいい。
待てよ……あの〝マイクロパイルドライバー〟で刺されたということは、先端にマルゾンの脳みそ──異常ダピオンが付着していたのではないか。体内にそれが浸入したとすると……。
おれは慌てて尋ねた。
「先生、おれの傷口に異常ダピオンが引っ付いていませんでしたか!?」
「──うむ。当然調べたが、そいつは検出されなかった。もちろんその他の細菌・ウイルスの類も完全に除菌済みだ。これでもわしゃ戦場感染症の専門家だからね」
それを聞いて安堵した。
もし異常ダピオンが付着していたとしても、マルゾンもろとも串刺しにされた際に拭い取られたのだろう。
「……本当におれは運がよかったんですね」
と、おれは深く息を吐いた。また胸が疼く。
「そうだ。しかし油断は禁物。重傷は重傷だ。かなりの量を輸血をしたよ。傷が塞がるまであと四週間は入院が必要だ。毎日、患部のガーゼを取り換えさせよう。毎食後の抗生剤も飲み忘れないように」
「……ありがとうございます」
看護師が老医師の指示をクリップボードに書き写していた。
おれは素早く考える。
果たして猿座は故意におれを狙ったのか。それとも反射的にマルゾンを攻撃した際の巻き込み事故だったのか。
猿座は、おれが昏睡から目醒めれば隊に報告を上げると思うはずだ。おれの言い方次第で彼の立場が左右される。彼はその前になにがしかの手を打とうとするのではないか。
もっと言えば……恨みが高じての意図的な攻撃だった場合、おれにとどめを──。
急激に心臓の鼓動が速くなってきた。こめかみから脂汗が垂れて来た。
老医師は腕時計を見た。
「それではお大事に」
と言って、看護師と共に踵を返した。
「あの……すみません」
「なんだい?」
帰りかけた老医師が振り向いた。
「おれが目覚めたことは……隊に連絡が行きますよね」
「もちろんだ」
「谷口士長──いや中隊長か──に直接報告したいんですが」
「そうか。どのみち報告先は谷口さんだよ。そのように言っておく。──君、そうしてくれたまえ」
と、言って、主治医は看護師に指示した。
「わかりました。では鷲尾さん、お大事に」
二人は出て行った。
カーテンが全開になったので、首だけ巡らせばなんとか病室が見渡せた。
他に二つのベッドがあるようだった。おれは入口寄りの壁沿いで、そこから窓に向かって平行に三人が──つまり川の字に──並んでいる。
隣の髭面の中年男は頭部を負傷しているようだった。後頭部に大きなガーゼを当て、白い網を被っている。年の頃なら三十代半ばか。当然、彼も警予隊員なのだろう。ベッドの背を起こしていた。
おれたちの脚の方向の壁の中央には中型の液晶テレビが一つ掛かっており、男はそれに見入っていた。
おれもテレビを注視する。ニュース番組をやっていた。
画面端の時刻表示は九時十五分。今は朝だった。
『──府内各所で存命遺体が発生している件の続報です。特に代々幡・池袋・六本木・内藤新宿といった繁華街で多数の発生が確認されています。これにより、国鉄山手線・総武線・中央線・大東急線・帝都線が運転を見合わせています。また、一部の道路に交通規制が出ていますので、車の運転をされる方はご注意ください。それから東京府二十八区内の教育機関はすべて閉鎖中とのことで、生徒・学生は自宅待機となっている模様です』
画面では、駅のホームに停まった電車の映像や、道路の渋滞が映し出されていた。
そして、街中をうろうろと出鱈目に歩き回るマルゾンらしき集団。
逃げ惑う人々。全体的にモザイクがかかっていて、何が何やらわからない。
おれが意識を失っているうちに、都内、いや府内は大変なことになっていた。伝染病ではないはずなのに、これではほとんどパンデミックだ。
おれは苦労して隣の男の方に身体を傾けた。
「……鷲尾です。よろしく」
「え? ああ、俺は上野二等警察士補だ。よろしくな」
上野は階級を付けて名乗った。
「……おれはハインライン社からの出向です。あんたも普通科特装機ですか?」
そう訊くと、上野は肩を竦めた。
「いや、普通の普通科だ。高機やLAVの運転がメインというところだ」
「そうですか。──東京はいったいどうなっているんです?」
「ああ?……そうか、あんたはずっと寝ていて知らなかったんだな」
「ええ、さっき目が覚めたんです」
上野は後頭部をガーゼの上から掻いた。
「一昨日あたりから府内で急にマルゾンが大量発生したのさ」
「一昨日……ですって?」
『ソイメイト』の主要都市での拡大販売開始日から予想された感染爆発まで、まだ一か月はあったはず。それなのにもう始まったのか。
「そうだ。俺も緊急出動で負傷した。まあ、車が事故ったんだけどな。やつらはこれまでのより手強いぞ。特に歯が強い」
上野がヤニで黄色くなった歯を剥き出して見せた。
「やはりエサウ病ですか?」
「そうらしい」
「感染経路は?」
「そこまではわからん。今、〈存対〉が調査中らしい」
急展開だ。自分が慌てても仕方が無いが、落ち着かない。
「そうですか……」
入口付近の壁がノックされ、先ほどの看護師が戻ってきた。
「鷲尾さん。谷口士長にはお伝えしました。『一時間以内に担当の人間を向かわせる』とのことでした」
「わかりました。ありがとう」
谷口連隊長本人ではないらしい。
それはそうか。多忙を極める彼が一兵卒の、ましてや出向のおれの所に聞き取りに来るはずがない。ひとまず担当者とやらを待とう。今は感染爆発の方も気になる。
テレビはワイドショー番組に切り替わっていた。画面では、テーブルに年配の司会者と女性アシスタントを挟んでコメンテーターがずらりと並んでいる。
背景には、顔にモザイクがかかったマルゾンの集団の画像。
コメンテーターの中に、〈存対〉委員長の山田がいた。
『山田さん、この状態をどうお考えですか』
と、年配の司会者。
『内藤新宿の時の原因がウラジューゴ料理の肉、静城の時はジナイダ社のソイメイトであることが判明しています……。我々はやがて各地で、全国販売されたソイメイトが原因の集団発症が起きることを予想していました……。先月、保社省を通じて国民の皆さんにお伝えしたとおりです……』
山田委員長は苦しげだ。
『しかしそれはあと約一か月後のことでしたよね。私たちはまだ準備ができていません。それは存対の予想ミスということになりませんか』
と、若い男性コメンテーターのカウンターパンチが飛んだ。
『いや、ミスというか……これは想定外の原因なのではないかと思われます』
『それは何なのですか?』
『現在、調査中です……』
山田委員長は調査中と言っているが、案外、〈存対〉の中では答えが出ているのかも知れないなと、おれは会議に参加した経験から思った。
『とりあえずの対応はどういうことになりましょうか』
と、司会者が訊く。
『とにかく、不要不急の外出を控えていただくしかありません。あとは粛々と、警予隊の存命遺体処理部隊に処理してもらうしかありません』
山田委員長が難しい顔をして答えた。
『処理部隊といってもまだ人数が少ないと聞いています、存命遺体がこう多くては追い付かないんじゃないですか』
と、男性コメンテーターがさらに追及する。
『現在、協力工場を増やしてZIM、S.A.T.O.といった専用装備の増産態勢を強め、処理部隊の増員に努めています』
と、山田委員長。
そこで司会者がフリップを出しながら素早く解説を挟む。
『ここで少し説明しますと、ZIMやS.A.T.O.というのは、それぞれハインライン社、サトーコーポレーションで開発されたパワーアシストマシンですね。人が装着することによって、普通の人の何倍もの力が出せて、外部からの衝撃にも強いということです』
やはりS.A.T.O.が制式採用されたらしい。
『──って、それには我々の税金が投入されますよね。ZIMとかS.A.T.O.ってたぶんかなり高価だと思うんですが、そういうのが無くてはダメなんですか?』
と、真っ赤な服を着た女性コメンテーターがまくし立てた。
『存命遺体は力が異常に強く、常人では敵いません。特に最近は歯が強い個体が増えてきており、パワーアシスト機能と防御性が同時に無いと対処できません』
『そもそも、まだ生きている人間を殺してもいいという法律は間違ってやしませんか?』
と、赤い服の女性が話題を変えた。
『またそれを蒸し返しますか』
と、男性コメンテーター。
『〝エサウ脳死〟は厳密には死んではいませんが、脳が不可逆的ダメージを受けているのでいずれ必ず死に至ります。早いか遅いかの違いです。それよりも健康に生きている人間の生命を優先させようというのがこの新法の狙いなのです』
と、山田委員長。
『それは差別じゃないんですか?』
と、赤服女性が山田委員長に人差し指を向ける。
『差別じゃなくて区別です』
『それは単なる言い換えというものでしょう。言葉遊びをしてる場合ですか』
『いや、人と存命遺体のどちらも生かすことはできません。ここは〝優先順位〟と〝区別〟で割り切るしかないのです』
山田委員長があくまでも冷静に説明する。
『そうですよねえ。回復する見込みが無いのに、一人一人保護して収容ということでは非効率だし、人手も場所も、それこそお金も足りませんから』
と、若い男。
『効率の問題ですか』
と赤服が吐き捨てる。
『そうですよ。冷静に、科学的に考えましょうよ。生きてる人間のが大事でしょうが』
と、若い男。
『この私が冷静じゃないって言うんですか!』
『まあまあ』
司会者が両手を挙げて場を鎮めようとする。
『──私が問題にしたいのは、なぜハインライン社やサトー社だけが請け負っているのかという点ですよ。なぜこの二社だけなのか。どういう経緯でこうなっているのかが極めて不透明ですよ。裏で利権とか癒着とかあるんじゃないですか?』
と、赤服が司会者のフリップをぺンで乱暴に叩いた。
「ちょ、ちょっと!」
「いやいや、論点がズレているでしょう」
「そう、今はもっと大事なことを考えませんか」
「いえ、国民の立場に立てばですね──」
番組は紛糾した。
「失礼しまーす。鷲尾さん、特装機の方がいらっしゃいました」
と、看護師が言った。
彼女の陰に迷彩服が見えた。調査官だ。思ったより早かった。
「そこの椅子をお使いください」
看護師は出て行った。
「ありがとう」
迷彩服が入ってきた。
顔を見た。
あろうことか、それは猿座だった。
「押忍」
おれは全身が硬直するのを感じた。
血が下がってすべて背中に回った気がした。
猿座はまず、別のベッドの方へ行って声を掛けた。
「申し訳ない。混み入った話をしたいので、部屋を出てくれませんか。一〇分ほどで終わる」
「ん、一〇分? 了~」
「タバコでも行くか」
猿座の人払いに応じ、同室の二人はサンダルをつっかけて出て行った。おれにとって不運なことに、窓際の患者も歩けない怪我ではなかったのだ。
おれはナースコールのスイッチに手をかけた。
「慌てるな」
と、猿座は言った。
「あんたが……調査官なのか」
「調査官? そんなわけがない」
「何しに来た」
おれは精一杯の怒気を込めた声で言った。
「怪我のことはすまなかったな」
「心にも無いことを」
「俺のことはもう報告したのか?」
「まだだ。──やり損ねたので、とどめを刺しに来たのか」
猿座は肩を竦めて見せると、パイプ椅子に手を伸ばした。
おれは咄嗟に身構えたが、傷が痛んで小さく呻いた。
猿座はおもむろに椅子を開いて座った。ギイギイと嫌な軋み音を立てた。
「ここに運び込まれたことはとっくに知っていた。当然だろう、同じ連隊にいるんだ。──本当にとどめを刺すつもりなら、いつでもできた」
言われてみれば確かにそうだった。昏睡状態にある時に来て、ゆっくり、今度は正確に左の胸を刺せばいいのだ。
「なぜそうしなかった」
「だから、あれは事故だった。──それに、俺はもう気が済んでいる」
「信じられない……」
だが、この世界では〝あるある〟なのかも知れない。
想像力が貧弱な分、あれこれ考え悩むことが少ないからスイッチの切り替えが早いということだろうか……。
「それで、目覚めたお前が俺を怖がっているんじゃないかと思って、先に教えに来てやったのさ。──もうお前には関わらないから安心しろ」
「それを感謝しろとでも言うのかい」
「別にしなくていい」
「当たり前だ。もうすぐ調査官が来る。正直に報告する」
「勝手にやってくれ。俺は出がけに辞表を出してきた。もう消える。じゃあな」
おれはナースコールを握り直したが、猿座は素早く出て行った。
一〇分が経過したのか、入れ替わりに同室の二人がガヤガヤと戻って来た。
その五分後、看護師に連れられて再び迷彩服が入って来た。五十代くらいのクルーカットだった。今度こそ調査官だと名乗った。
が、そのすぐ後ろからいやにガタイのいい男が付いてきた。
あのマントヒヒ顔の出間だった。
「すまなかった。俺がバディを疎かにしたばっかりに……」
そう言って、出間はレジ袋を差し出した。受け取るとズシリと重かった。傷に響く。中を見るとプロテインパウダーだった。それで傷を治せということか。出間らしい単純さだ。
「いや……助けてくれてありがとう。──それで、静城のマルゾンはどうなった?」
「すっかり片付いた。よく知らないが、あのあと新型機の試験運用とやらで二個分隊が追加配備されたらしくてな、一気に捗った」
それは猿座たちのS.A.T.O.だ……。
「そうか」
調査官が同室の二人の方を向き、言った。
「申し訳ない。混み入った話をしたいので、三〇分ほど部屋を出てもらえませんか」
「了解、了解」
「タバコ、もう一本行くか」
「二、三本はいけそうだ」
二人は再び出て行った。













