YS-11“量産初号機”安住の地へ

2021.04.23

YS11“量産初号機"安住の地へ 月刊ホビージャパン2021年5月号(3月25日発売)

 国立科学博物館が所有するYS-11の量産初号機が茨城県筑西市で保管、公開されることになった。初の量産型という価値を有しながらもスクラップの危機も経験した同機。やっと安住の地を手に入れた量産初号機の最新の姿をご紹介したい。

▲2020年12月にザ・ヒロサワ・シティで再組み立てが完了した量産初号機。再組み立て後はタイヤの劣化を防ぐためにすぐさまジャッキアップの処置がなされた。ジャッキを含めた治具類を確保するのも一苦労で、治具類はまだYS-11が現役で運用されている航空自衛隊の整備機材を借り受けたもの
▲白を基調とした現役時の美しい姿を見事にとどめている。移設先の選定に当たっては屋内での保存が必須で、屋外展示は最初から考慮されなかった。移設先探しには当然ネックとなるが、機体の貴重さ故、科博としては譲れない条件だった
▲航空局の旧塗装をまとった量産初号機。1966年11月3日の入間基地祭での撮影で、航空局に納入されて2年弱、まだまだピカピカの新造機だった頃のカット。機首や方向舵を除く垂直尾翼、主翼端は視認性向上のためイエローオレンジに塗られている

▲ここからは移設作業の様子をご紹介。この2枚は羽田での分解作業時の撮影で、分解前に機体全体をジャッキアップしたところ。プロペラの取り外し作業。今回の移設を通して図らずもリバースエンジニアリングが実施されたわけで、機体の構造や、試作機から量産型への変遷など、得られた知見はかなりのものと思われる

▲こちらは羽田空港から筑西市への搬送中のカット。深夜の人通り、車通りの絶えた上野駅前をトレーラーに載せられたYS-11がひっそりと運ばれていく。おそらく今後二度とは見られない光景だろう。これも貴重な記録となった。搬送は2020年3月27日夜から28日にかけて実施された
▲無事に筑西市に到着しトレーラーから降ろされる胴体部。この時はまだコロナ禍の端緒で、その後の資金不足は実感しづらかった時期
▲分解、再組立てのリーダー役を務めた佐藤正弘氏。JAS、JALなどで長く航空機整備をされてきた元整備士。東亜国内航空時代にYS-11の分解再整備を行った経験を持つ
▲量産初号機の展示のために新たに建設された建屋型の展示スペース。莫大な建設費はザ・ヒロサワ・シティ側が負担しておりその姿勢には頭が下がる

▲ホビー誌としては模型にも触れておきたい。量産初号機はハセガワが1/144でキット化していたが現在は絶版。今回の移設を機に可能ならば再販をお願いしたいところ。右は移設プロジェクトのために作り起されたワッペンのレプリカステッカー。下田信夫氏のイラストが素晴らしい

■YS-11の量産初号機
 戦後初の国産旅客機YS-11。試作機の2機に続いて生産されたのが初の量産型となる製造番号2003号機(機体番号はJA8610)だ。この“量産初号機”は1965年に運輸省(当時)航空局に納入され、以来、1998年に引退するまで、航空局一筋に、日本各地の航空管制施設、レーダー施設などの保安維持のためのフライトチェッカーとして活躍してきた。戦後初の国産旅客機、しかも量産型の初号機という価値のある機体であったため、機械遺産や重要航空遺産にも指定され、引退後は国立科学博物館(以下科博)が引き取り、羽田空港で各部が稼動する動態状態で長年にわたり保存されてきた。
■置き場がない! お金もない!
 ところが羽田空港は初号機にとって安住の地ではなかった。昨今、羽田空港は国際空港としての機能を充実させているが、その国際化の進展にともなって量産初号機の駐機スペースが確保できないという事態に陥った。機体の価値は誰しもが認めるところだが、保管場所がなくてはスクラップの危機に直面する。科博で産業遺産などを担当する産業技術史資料情報センターの鈴木一義センター長の尽力の末に、茨城県筑西市にある複合レジャー施設、ザ・ヒロサワ・シティが保管場所を提供すると申し出てくれて、初号機の未来もこれで安泰かと思われた。
 ザ・ヒロサワ・シティへの引越しのために羽田での分解作業が始まったのが2019年9月。分解作業を担う元整備士の方々を集めたり、治具類を確保したりなどの苦労はあったものの、作業自体は概ね順調に進んでいたが、そこへ降りかかったのが未曾有の感染症、COVID-19だった。科博も一時休館を余儀なくされ、かきいれどきの夏場の特別展の開催も不可となり入館料収入の激減が予想される事態に。筑西市への搬送は2020年3月末に終えていたものの、このままでは再組み立ての費用が捻出できない懸念が出てきた。そこで頼ったのがクラウドファンディング。ネット上で企業や個人に寄付を募ったところ、こんな社会情勢にも関わらずほぼ目標通りの約3000万円の寄付を得ることができた。
■再組み立て完了
 こうした曲折を経て、ついに昨年の12月にザ・ヒロサワ・シティでの機体の再組み立てが完了し、今後は展示スペースの造作などを経て一般に公開される見通しだ。機体そのものの価値に加え、今回の移設プロジェクトを通したドラマをも背負うことになったYS-11の量産初号機。一般公開が始まったあかつきにはぜひ筑西市を訪れて、そのバックグラウンドともども航空遺産たる貴重な姿を堪能していただきたい

写真/ 国立科学博物館、ザ・ヒロサワ・シティ、和田一也、菅野泰伸 文/菅野泰伸


YS-11稼働中!

 ここでは在りし日のYS-11の勇姿を集めてみた。誌面に限りがあるため国内エアラインを中心とした一部の機体しか掲載できないが、それでも多くのユーザーに愛されたYS-11の豊富な塗装バリエーションを感じてもらえると思う。

▲こちらも記念すべき試作1号機(JA8611)。YS-11のすべてはこの機体から始まった。試作1号機は1962年8月30日に初飛行し、その後製造された2号機とともに各種試験に供された。写真は1971年10下旬から11月上旬にかけて小牧基地で開催された国際航空宇宙ショーでデモフライトする1号機。引退後の本機は成田の航空科学博物館に引き取られ、現在でもその姿を見ることができる

▲YS-11は沖縄の翼、南西航空でも活躍した。陸続きでない南西諸島では空路は必須の移動手段で、YS-11はまさに沖縄の人たちの足であった。上は1978年7月に旧石垣空港で撮影されたJA8775“ひるぎ”とJA8794“ふくぎ”で、関係の深かった日本航空に準じた塗装。下左はカラーリングを刷新した後期塗装で、オレンジをメインにした南国情緒あふれるデザインとなった。1987年3月、那覇空港(JA8710)。下右は日本トランスオーシャン航空に社名を変更した同社YS-11の最晩年の姿。前出の“ひるぎ”と同じ機体で、撮影は1997年3月、与那国空港

▲全日空(ANA)のモヒカン塗装もYS-11に良く似合っていた。大阪国際空港(伊丹空港)のA滑走路、32Rエンドで撮影されたJA8755(1981年8月)。背景は宝塚の山々で伊丹らしい雰囲気に溢れる写真。当時、YS-11は主要空港と地方空港を結ぶ路線の主力機として活躍中で、伊丹でも多数の機体を見ることができた
▲トビウオマークの日本近距離航空(NAK)機。このJA8728はANAが導入し、10年ほど同社で運航された後、NKAへ移管された機体。1984年8月、伊丹で撮影
▲こちらはエアーニッポン機。大島空港に到着後、折り返し羽田へ戻るための準備に忙しいJA8744。1996年3月の撮影。羽田-大島線は同社最後のYS-11路線となった
▲東亜国内航空(TDA)は最も多くのYS-11を運用した航空会社。そもそも1965年に初めてYS-11による定期路線を開設したのがTDAの前身、日本国内航空(JDA)だった。写真のJA8648はJDAへの導入時は“珊瑚”の愛称で呼ばれ、後に“つがる”に改名、TDA時代も引き継がれた。1975年10月、伊丹で撮影
▲1981年8月に伊丹空港に着陸するTDAのJA8665“あわじ”。緑と赤が印象的な同社の後期塗装。後年の日本エアシステムが出資した日本エアコミューター時代も含めれば、同社系列は40年以上にわたりYS-11と関係があったことになる

写真/ 和田一也、菅野泰伸

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菅野泰伸

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