【新連載スタート】書き下ろし小説『マルゾン 転生したらまるでゾンビを知らない世界でした』作・歌田年【異世界ゾンビバトル】
2025.08.25
第2章 病院
救急車のサイレンの音が近付き、病院の敷地内に入ると止んだ。
おれはいつものように入院病棟の五階に行く。まずナースステーションを覗いたが、誰もいない。
お袋の病室に直接向かうことにした。
五〇六号室だ。入口の名札を見る。お袋の名前はない。念のため定位置の右側のベッドを覗く。別人が寝ていた。外へ出て、もう一度部屋番号と名札を確かめる。何度見直しても変わらない。病室を移ったのだろうか。ままあることだ。
廊下を行ったり来たりして、五階の病室の名札を全て見て回った。しかし徒労だった。
再びナースステーションに行く。今度は女性看護師がやって来たので捕まえようとすると、デスクの上の電話が鳴った。
看護師がすかさず受話器を取り上げる。何か問題が起きたようで、にわかに表情が険しくなった。受話器を置いた。
おれは言い出しにくかったが、言わねばならない。
「すみません。こちらに鷲尾良子という患者は入院していませんか?」
「え? あ……はいはい。どんな字を書きますか?」
個人情報だが、特に咎められなかった。半分うわの空の看護師に、おれは漢字を教えた。彼女はデスク上のPCを操作した。
「……そういう方は入院されていませんねえ」
「他の階もですか?」
「はい。当院には」
やはりそうなのか。
さらに質問を投げかけようとしたら、また電話が鳴った。看護師がおれを手で制したので、諦めてエレベーターへ向かった。
この病院にはお袋はいないようだ。やはり世界が違うのだ。並行世界だからと言ってドッペルゲンガーのような存在はなく、別人が各世界に一人ずつ存在するということなのだろうか。
しかし元の世界では核ミサイルが落ちて、東京は消滅しただろう。お袋やその他おれが知る人は皆いなくなってしまった……。
礼子はどうだろうか。おれを迎えに来たりせず、まだ箱根にいたなら無事かも知れない。もしあの世界に戻れたら……。
一階に着き、エントランスへ向かうべく待合ロビーを突っ切る。ちょうど備え付けの大型テレビでニュースが始まったので、おれは足を止めた。
『──警察によりますと、今日午後一時頃、東京府・内藤新宿五丁目で〝客が男に襲われて大怪我をした〟と、ウラジューゴ料理店を営む男性から警察に通報がありました。さらに、この男が近くの路上で暴れているとの通報があり、警察官が駆けつけたところ、男に抵抗され、警察官も負傷したということです。このため、警察官が男に向けて拳銃を5回発砲し、男は弾に当たって病院に搬送されましたが、死亡したということです。
男は四十代と見られ、最初に襲われた二十代男性は首筋を噛まれて病院に搬送されましたが出血多量で意識不明の重体。また、路上で襲われた男性も内臓破裂によりその場で死亡が確認されました。警察官も顔に怪我をしましたが命に別状はないということです。警察は、最初に噛まれた二十代の男性と男との間にトラブルがあったと見て詳しい状況を調べています。
現場近くに住む六十代の自営業の男性は〝パンパンという音が聞こえたので、誰かが爆竹で遊んでいるのかと思って外に出てみると、人が血まみれで倒れていたので驚いた。こんなことがあって怖いです〟と話していました』
先程のゴールデン街の一件がもう報じられていた。あの作業員風の男はやはり射殺されたらしい。
元来た廊下の奥が急に騒がしくなった。救急の出入口付近のようだ。
おれの直感が逃げろと言っている。
だが、この世界のことを少しでも知りたいと思うようになったおれは、騒ぎの方向に吸い寄せられた。
人々が遠巻きに見ている中心に、一人の老人がいた。
大暴れしている。あの作業員の男と同じだ。
二人の男性看護師が取り押さえようとしていたが、弾き飛ばされた。見れば、老人の乱れた衣服から覗く胸には肋骨が透けている。この痩身でこの怪力はどういうことだ。やはり薬物なのだろうか。
それともゾン……いや、違う。
足許には血まみれの人が数人、這いつくばっていた。いったい、この世界では何が起きているのだ。
青い制服を着た警備員が二人駆け付けた。腰のベルトから特殊警棒を抜き出し、老人の腕に強烈な一撃を加えた。だが、老人は表情も変えず、一切ひるむ気配もなく、両手を突き出して警備員に迫った。
いやどう見てもこれはゾンビだろう……。
その時、老人の足許で小柄な人影が動いた。
子供だ。
逃げ遅れて蹲っていたらしい。
狂乱老人がそちらに注意を向けるのがわかった。その枯れ枝のような手が伸びた。いや、見た目は枯れていたが、きっとペンチのような強さなのだろう。
おれは反射的に動いていた。腰を屈めて素早く近づき、子供の身体を掴むと、横に転がった。
子供を小脇に抱えたまま、混乱した状況から脱しようとした。床の血で足が滑る。なかなか前に進まない。もどかしかった。
何事かと集まってくる人の波を掻き分けながら、子供とともに廊下を駆け抜けた。やっと待合ロビーに着いた。
「大丈夫かい?」
子供を見た。ショートカットの髪の少女だった。十歳くらいだろうか。ピンクのトレーナーに赤っぽいタータンチェックのスカートを穿いている。脚がひどく痩せていた。
「はい。ありがとうございました」
少女は丁寧に礼を言い、ペコリと頭を下げた。態度は気丈だが、小刻みに震えているのがわかった。無理もない。
「どこか怪我はないかい?」
おれは少女の身体を見回した。トレーナーの右腕が血に染まっている。軽く触れると少女は小さく呻いた。
「ちょっとだけです」
「見ていいかい?」
慎重に袖を捲ると、肘より少し下に抉れた傷がある。
ちょっとどころではない。傷の長さは五センチほど。肉が深さ五ミリほど千切り取られていた。歯型がくっきりしていた。白い組織の間から血がじゅくじゅくと沁み出している。
おれの背中の中心を冷たい物が流れた。
少女は噛まれていた……。
ゾンビ映画なら詰んだ。
早い場合は十数秒で変転。遅くとも二、三日で発症する。もちろん映画の中での話だ。だがおれは完全に怯んでいた。
少女の大きな両の目を見た。白く濁ったりはしていないか。
まだ特に変化は現れていない。
少女も心細そうな目でおれを見上げる。仕方なく、自分のハンカチを細長く折って少女の傷口に当て、強めに縛った。少女が小さく悲鳴を上げた。
「ごめんよ。すぐに治療してもらおう。ここはちょうど病院だから」
おれたちは外科の窓口を探した。
不思議なことに、おれはその時にはもう鏡を使っていなかった。慣れもあるだろうが、特に漢字は鏡文字でも難なく読めた。さすがは象形文字の一種だ。それと、これも意外だったがアルファベットも判別しやすかった。一方、単純化されたカナの場合は読みづらく、少し考えないと解読できなかった。
外科も一階にあった。おれは少女をベンチに座らせ、窓口に駆け寄った。カウンターの向こうでは看護師たちがバタバタ動き回っていた。
「すみません。今そこで怪我をした子がいまして」
看護師が瞬間的に立ち止まって、無造作にバインダーをよこした。
「ここに症状を書いてください」
問診票のようだった。院内で患者が暴れ、怪我人が出ているというのに呑気に書類に記入しろと言う。
奇妙な気がしたものの、病院とはそういうものなんだと思い直して少女の所に戻り、バインダーを手渡した。
「書けるかい」
「はい」
少女が健気に頷くと、元気な方の左手でペンを動かした。左利きなのだ。いや、この世界ではそれが標準らしい。バインダーを膝の上に載せ、真剣な表情で記入を始めた。名前を見るとはなしに見てしまった。
「アンダーソン芳井美伶さんというのか。なんだか難しい名前だな」
「うふふ」
楽しげに笑う。
さっきの怯えた表情はどこへやら。おれはその横顔をまじまじと見た。けっこうな美少女だ。彫りが深く鼻が高い。どこもかしこも定規を当てたようにシャープで、パーツの位置が正確だ。おれとは大違いだった。名前から察するに、ハーフなのだろう。
「保険証はあるの?」
「今日は持ってないです。でも、こないだ出しました」
「今日は通院日だったの?」
「はい。神経内科です」
「ふーん」
おれたちがそんな会話をしている間も、遠くの方では騒ぎが続いているようだった。果たして、このままここにいて大丈夫なのだろうか。
外科の待合所は患者が溢れていた。もともと外来が多いのだろうが、先ほどの騒ぎで美伶のような負傷者が増えたのかも知れない。ストレッチャーに乗せられた重症の人までいる。
表玄関の方から警察官が数人、速足で入ってきた。通報が届いたらしい。これでひとまず安心だ。彼らは拳銃を持っている。
それにしても、飲み屋街の真ん中ならいざ知らず、病院の中でこんなことが起きるとは思わなかった。
美伶を独りにするのは気が引けたが、もう自分がここに留まる理由は無かった。というより、長居はしたくはなかった。正直に言うと、感染が怖かったのだ。
おれは美伶に声をかけた。
「じゃあ、お大事に……」
その時。
ギャ──ッッ!
耳元で鋭い悲鳴が上がった。
振り向くと、先ほどまで後ろのストレッチャーで寝ていた血まみれの重症患者が、隣のベンチに座っていた太めの中年女性の首筋に喰らい付いていた。
おれは飛び退った。美伶がしがみ付いてきた。
「逃げろ!」
と、おれは美伶の背中を押したが、離れようとはしない。
するとまた一人、別の患者が暴れ始めた。まるで連鎖反応だ。院内の人々はパニックになり、玄関へ殺到した。
おれたちもそれに倣おうとしたが、人が渋滞していて先に進めない。そうこうしている間にも次々と犠牲者が倒れていく。
仕方無く美伶の手を引いて、奥の廊下へ避難した。
表示を見るとそこは診察室ではなく検査室のエリアだった。待合の患者はいなかった。壁沿いにはストレッチャーが三台並んでいた。
よく見ると、それぞれ人が乗っているのを物語るかように大量の血痕が付いたシーツが盛り上がっていた。顔まで被せられている。亡くなったのだろうか。
嫌な予感がした。
横を通る時、シーツが徐々起き上がり始めるのがわかった。それも全部だ。シーツがずれる。青黒い頭が見えてきた。
と、横のドアが開いた。出てきたのは女性看護師だった。
「ああ、よかった。息を吹き返したのね…」
看護師がストレッチャーの患者に近寄った。ライトペンを取り出すと、青黒い顔から血を滴らせ目を濁らせた彼らを仔細に観察し始めた。
「気を付けろ! それはゾンビだ!」
おれは叫んだ。
看護師は振り向き、「この人はいったい何を言っているのだろう」という顔をしてから、再び彼らに向き直った。
その顔面に、大口を開けたゾンビが食らい付いた。直後、隣のストレッチャーのゾンビも襲い掛かる。
ダメだ。まるでゾンビを知らない。
美伶が両手で口許を押さえた。悲鳴を噛み殺している。
おれは美伶の手首を掴み、廊下を駆け出した。
奥へ、奥へ。
突き当たりに緑のランプが点いたドアがあった。非常口だろう。
ロックを外した。ドアを開けると午後の眩い陽光が目を射た。
おれと美伶は外へ飛び出した。
つづく
この物語はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係がありません。
【マルゾン 転生したらまるでゾンビを知らない世界でした】
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