【新連載スタート】書き下ろし小説『マルゾン 転生したらまるでゾンビを知らない世界でした』作・歌田年【異世界ゾンビバトル】
2025.08.25第1章 まるでゾンビを知らない
眠っていて、ベッドから落ちて目覚めるという経験は無い。
だけど、電車で居眠りをしていて、突然身体がビクリとなって飛び起きるということはよくある。
両者の中間あたりの感じだろうか。
身体を起こした。節々が痛い。特に、頭が痛い。触ってみる。頭頂部に大きなこぶが出来ていた。
次第に記憶が蘇ってきた。
確かミサイルが落ちて……飛ばされて……。
周りを見回す。自分は小さな路地のアスファルトの上に座っていた。
位置的には映画館〈新宿ピカデリー〉の近くのようだ。しかし特に変わった様子は無い。破壊された形跡も一切見当たらない。
どういうことだ。
幻か白日夢でも見ていたのだろうか。
そうでなければこの状況の説明がつかない。
暖かな春の日差しの中、おれの脇を通行人たちが通り過ぎて行く。一瞥はくれるものの、無関心の表情だ。まるでおれは朝まで路上で寝ていた酔っ払いのようだった。
腕時計を見る。十一時十二分。さっき見た時から小一時間が過ぎている。目下の目的を思い出した。お袋の病院へ行こうとしていたのだ。そして十二時過ぎの電車に乗らなければならなかった。時間がない。
おれは慌てた。痛む身体をなだめながら立ち上がると、靖国通りの方向へ歩き出した。
違和感。
靖国通りは新宿駅から見て北の方向だ。だが太陽光線が正面から当たる。そうか、間違えて駅寄りの新宿通りへ向かってしまったのか。平行しているこの二本の大通りはよく間違えるのだ。おれはくるりと身体を翻して足早に歩き出した。
それにしても、どういうことだ。路上で一時間も寝ていたなんて。おれは貧血でも起こして倒れてしまったのか。しかも妙な夢まで見ている。確かにここのところ仕事で忙しかったし、心労もあった……。
また大通りに出た。
だが。
道の反対側に〈TSUTAYA〉があった。しかしおれの知っているTSUTAYAは新宿通りにしかない。しかし最近移転したということも考えられる。おれは再び違和感を覚えて看板をまじまじと見た。
AYUSUZ
デザインはまったく同じなのにスペルが違う。〝アユスズ〟と読むのか?
そうか。たぶん単にTSUTAYAのロゴだけを真似た新しい居酒屋か何かだろう。
しかし、その横の道を真っ直ぐ進むとガードに行き当たった。こんな所にガードが? よく見ると甲州街道のガードのようだ。南口の方に来てしまった。やはり逆方向に歩いていたか。引き返さなければ。
おれは同じ道を戻るのにうんざりし、右に曲がってから別の道を辿ることにした。時間を無駄にしまった。速足でまっすぐ歩く。
相変わらず日光の向きに違和感があったが、これで方向は間違いない。
方向は合っていたが、伊勢丹の裏手に出た。どうも感覚がおかしい。倒れた時に頭を打ったせいだろうか。医者の診てもらうべきか。
側頭部をさすりながら、おれは遠回りして交差点の横断歩道を渡った。
区役所通り入口の交差点だと思っていたので右へ歩いたら、花園神社の前に来てしまった。だったら交差点を直進して明治通りを北へ向かえばよかったのだ。
焦ってすぐ横の小路に入る。この道でも方向は同じだった。ゴールデン街を過ぎた所で文化センター通りに入ってしまえばいいのだ。
やっとフリダシに戻った気がした。右手にゴールデン街、左手に元小学校である〈吉本興業〉。相変わらず方向感覚が不安定なまま、とにかく前に進む。
突然、こちらに向かって数人の人がバタバタと走ってきた。
みな血相を変えている。
シャツの腕から血が滴っている人もいた。
「警察! 警察!」
「キョンチャル! キョンチャル!」
「ポリツィア! ポリツィア!」
口々に叫んている。
何が起きたのか。
おれは歩く速度を緩めて警戒しつつ、それでも進行方向に歩を進めた。
前方に揉み合っている人影があった。騒ぎの原因はこれだ。喧嘩だろうか。
おれは近付いた。
目を疑った。
凄まじい光景だった。──何と表現したらいいだろう。
作業員風の男が、スーツのサラリーマンをボロ布のように振り回していた。文字通り、身体がボロボロだった。これは誇張ではない。
サラリーマンの胸元から腹にかけ、血まみれで、裂けたシャツの間から腸などの内臓が垂れ下がっていた。手足の関節はあらぬ方向に曲がり、プラプラしている。右腕は既に肩から先が無い。
作業員風は、恐るべき怪力でサラリーマンの身体をふわりと持ち上げ、その首にかぶり付くと、肉を噛み千切った。皮一枚で繋がった頭がブランと垂れ下がり、やがて自重で千切れて地面に落ちて転がった。
そこまで見たおれは猛烈な吐き気に襲われた。口を押えたが間に合わず、消化しかけた朝食が口といわず鼻といわず噴き出した。
が、のんびり息を整えている暇が無いことはわかっていた。濡れた口を乱暴に拭うと、元来た方向に駈け出した。後ろでは骨の砕ける音や肉を裂く湿った音、甲高い悲鳴が止まない。
まだ状況を把握できていなさそうな野次馬が三人、スマホを取り出していた。〈花園交番〉から警官が二人飛び出してくるのが見えた。誰かが通報したのだ。彼らとすれ違うと、おれはようやく冷静さを取り戻した。
振り返ると、警官たちは作業員風を取り囲んでいた。
「止まれ!」
「やめろ!」
叫ぶ声が聴こえる。ついで拳銃の発射音が数回。
警官が発砲した。この日本で、これは相当なことだ。
あの惨状を見れば、男が異常な殺人者だということがすぐにわかっただろう。撃って制止するしかないという判断だ。もしかしたら射殺してしまったのかも知れない。
だが、それを確認する気はまったく起きなかった。現場を通るのもいやだ。怖い。そのまま靖国通りに戻った。
それにしてもあの男は異常だった。
まるで〝ゾンビ〟だ。
反射的にそう思ったが、すぐに打ち消した。映画の観過ぎか。
そんなことはありえない。たぶん薬物中毒者か何かだろう。彼らは時に怪力を振るうという。きっとそうに違いない──自分に言い聞かせた。現実離れしたことが続いてたまるか。
口の中が嘔吐物の残滓で気持ち悪い。鼻孔からも腐臭が抜けない。うがいをしたい。水が欲しい。
おれはコンビニを探した。確かこの通りに二軒くらいあったはずだ。
すぐに〈ローソン〉が見つかった。入ると、飲料の冷蔵棚に真っ直ぐ向かい、ペットボトル入りの水を一本取る。店員のいるカウンターに向かった。
浅黒い肌。外国人女性だ。のんびりした表情から、先ほどの騒ぎはまだ耳に届いていないようだった。
財布の小銭を探す。あいにく数十円しかない。仕方なく千円札を抜いてカウンターに置いた。
店員が紙幣を取り上げると、目の上にかざし、怪訝な顔をした。
「オ客サマ」
「はい」
「コレ、フェイク、偽物デスヨ」
「えっ?」
おれは店員の手から紙幣を引ったくった。同じようにして目の上にかざしてみる。特に異状はないようだ。肖像もおかしくないし、透かしも点字も入っている。おれには偽札には見えなかった。
「これのどこが?」
「反対」
「だから、どこが?」
おれは繰り返す。
「全部反対。絵モ字モ反対デス」
何を言っているのだろうか。意味がわからない。
おれは財布から別の千円札を取り出して店員に差し出した。
「同ジ。フェイク」
店員は首を振った。
おれは焦って一万円札を抜くと、これでどうだと突き出した。
「同ジ。フェイク。チョット待ッテ。店長サン、呼ビマス」
警察に突き出すというのか。何か誤解があるのだろう。単に外国人だから勘違いしているのかも知れない。だが、今は相手をしている時間は無い。病院に行かなければならないし、電車の予約もある。
「じゃあ、いいよ。バイバイ」
おれはペットボトルをカウンターに残して、足早に店を出た。ふと振り向くと、ローソンかと思っていた店名は違っていたようだ。
そうだ、それなら自販機だ。機械なら見間違いなどしないだろう。
交差点の角に飲料の自販機を見つけた。千円札を滑り込ませる。が、すぐに吐き出した。
もう一度やっても同じだった。釣り銭切れだろうか。表示ランプはどこだ。そこでおれは改めて自販機をまじまじと見つめた。
見本の商品名が読めない。
正確には、読めそうなのに読めない。歪んでいる? いや、それとは違う。
逆だ。
左右逆なのだ。本当にそうなのか、にわかには判断がつかないが、そのように見える。
やはり頭を打って神経か何かがやられてしまったのだろうか。先ほどから方向感覚もおかしい。これは大変なことになった……。
周囲を見回す。ビルの看板の文字も、デパートの垂れ幕も、道路標示も全部が左右逆だ。男の通行人を見た。スーツの合せが右前だ。
その事実に、先ほどの惨劇のショックが薄らぐほどだった。
おれはもう一度、手の千円札を見た。
普通に文字が読める。なるほど、まともに見えるということは、これは逆なのだ。あの店員の言うとおり偽札ということになるのか。
待てよ。
おれはサイフから免許証を出して見た。ちゃんと読める。
銀行のキャッシュカード・クレジットカード・レシート・クーポン・映画の半券……どれもみな普通に読める。
腕時計を見た。デジタル表示は十三時五分を示している。スマホを取り出す。アイコンの文字も全て読めた。
これら全部が偽物? そんなわけがない。
ということは、おれとおれの持ち物だけが周囲と違うということだ。
おれは異世界に来てしまったというのか。
眩暈がした。卒倒しそうになるのをなんとか踏み留まった。
まずは冷静になれ。おれは自分に言い聞かせた。
ラノベでよくある〝異世界転生〟か?
いや違う。別世界ではあるが、よく似ている。
ということは、昔SF小説で知った〝並行世界〟というやつだろうか。
〝パラレルワールド〟〝多元宇宙〟とも言った。少しずつ違う宇宙がいくつも並行して存在するという説だ。おれはその一つに迷い込んでしまったというのだろうか。
何が原因だろうか。
思い出せ。
目覚める前に起きたこと。──ミサイルが着弾した。
あれは夢ではなく、実際に起きたことだったのだ。×××の放った核ミサイルが東京に落ちた。そのエネルギーで次元に裂け目ができ、そこからおれは飛ばされた……。
思えば、おれは昔からSFが好きだった。SFと名の付く小説やマンガは片端から読んだ。高校の時は、それまで校内に無かったSF研を友達と組んで創設したっけ。
友達の名は鈴木賢治といった。二人でマンガの合作もした。鈴木は頭がよくて知識も豊富だった。あちらがマニアックな設定やストーリーを考え、おれが絵にした。おれがマンガ家を目指したのはそういう流れからだった。
しかし鈴木は、おれの成功を知らない。高校卒業間際に不幸な出来事があったのだ。……今はそのことについては思い出したくはない。
とにかく、鈴木とは趣味がよく似通っていた。だが、たまに意見が合わない時もあった。特に〝時間テーマ〟についてはよく議論を戦わせた。鈴木は必ず〝タイムパラドックス〟を持ち出して、時間テーマSF作品をけちょんけちょんにけなした。一方おれは深く考えない方で、面白ければいいじゃないかという方針だった。
そして極め付け、〝パラレルワールド〟という考え方がある。
過去に戻ってイベントをいじると、未来が変わるのではなく、別の並行世界の時間軸に繋がるという説だ。時間テーマSFの用語では〝可能性の未来〟とも言う。
「くくくく……わははは!」
おれは交差点の真ん中で声を上げて笑った。
通行人が振り向いた。
まさにその並行世界があったのだ。おれはそこへ飛ばされた。
〝異世界転生〟とは似て非なる〝次元転移〟だ。
そんな冗談のようなことが実際に起きるとは。本当なら核爆発で消滅するところを、命拾いしてここにいる。
おれはやはり運がいい。
「わははは……」
おれは笑い続けた。笑ったことによって少し落ち着きを取り戻した。
というより、諦めのようなものだろうか。たまたまSFを読んでいたので、必要以上にパニックにならずに済んだ。
だが、一度冷静になってしまうと、色々なことが頭の中に押し寄せてきた。
元の世界に残してきた重病のお袋はどうなってしまうのだろう。それに、せっかくの新連載は? 美しい礼子とのデートは? おれの捜索願いは出るのだろうか。それは誰がやってくれる? Amazonで注文した品々の受け取り、光熱費の支払い等々はどうする。Eメールの返事も一切返せない。郵便受けには手紙や新聞が溢れ返ってしまうだろう。
……しかし、いくら考えても、いくら心配しても無駄だ。
ここは〝パラレルワールド〟なのだ。
ジタバタしても始まらない。そう自分に言い聞かせる。まずはこの並行世界に順応しなくては。しかも何もかも左右が反転している。まるで鏡の国だ。おれはその事実をまず頭に叩き込んだ。次に何をすべきかを考えた。
とにかく口をすすぎたい。喉も乾いてきた。
おれは財布の中をもう一度確かめた。SUICAが出てきた。五千円分チャージしてあるはずだ。電子マネーにも左右はあるのだろうか。聞いたことはない。
試しに自販機の読み取り機に当ててみた。
反応があった!
しめた。やはり左右は関係ないようだ。運がよかった。デジタル万歳だ。すかさず水を買う。
おれはペットボトルの蓋をもどかしげに開け、口に押し当てて中身を流し込んだ。うがいをして吐き出す。
改めて飲む。うまい。
水はこの世界でも普通に水だった。生き返った。水を手に受け、顔を洗う。さっぱりして頭がクリアになってきた。元気も出てきた。残りの水を一気に飲み干してしまう。
さて、次の行動は?
今日の日付が知りたい。それと、鏡を買おう。このままでは文字が読めない。
おれは近くにあった〈セブンイレブン〉に似たコンビニに入った。日用品コーナーで安い手鏡をゲット。レジの所へ行くと、カロリーメイトが置いてあった。ついでに小腹も満たして置こうと思い、一つ手に取った。代金はやはりSUICAで払った。
出しなに新聞コーナーに残っていたスポーツ紙を覗く。鏡で見ると〝二〇一九年四月三日(水)〟とある。確かに完全な鏡文字だった。得体の知れない文字などではない。
外へ出た。道路標示を鏡に映して位置を確認。今いる所は〝新宿六丁目〟だった。
カロリーメイトの包みを開けて一口齧る。
いつもの甘い味を予想していたら、意外にもしょっぱい。改めて包み紙を見ると、カロリーメイトではなく〝ヨTAMYOZ〟とある。鏡に映して見ると〝SOYMATE〟だった。触れ込みによれば大豆たんぱくを主原料にしており、フレーバーは〝サーロインステーキ〟らしい。
これは斬新だと思った。しかも旨い。きっとこの世界ではヒットしているに違いないと思った。おれはあっという間に平らげた。
次はどうしよう。
たぶん、女子医大病院の医師との約束も、電車の予約も無かったことになっているだろう。だが、この世界にも女子医大があるのなら、行ってみないことには気が済まない。そこにはお袋がいるだろうか。いたとしたら、それは自分のお袋だろうか。
スマホのマップを呼び出してみた。だが、アプリを開いても以前ダウンロードしたエリア以外が見られない。オンラインにならず、更新ができないのだ。諦めてスマホをしまう。
おれは明治通りを北へ進み、再び交差点に突き当たった。道路標示を見る。文化センター通りを探す。左折だった。道は右に緩くカーブしていた。ことごとく記憶と逆だった。
通り過ぎる自動車は左ハンドルで右側通行。ナンバープレートも鏡文字だ。
見覚えのある新宿文化センターを左手に見て、右手には高層ビル。再び道は左にカーブして大久保通りに合流した。もう抜弁天だ。午後の太陽が正面に位置していた。本来なら東に向かっているはずなのに、だ。
女子医大は本来右側のはずだが、この世界でははたぶん左側だろう。
やがて道路標示に『婦人医大北』とあった。反転しているし〝女子〟が〝婦人〟になってはいるが馴染みのある道路標示だ。南北の名称は変わらない。果たして表示は左方向を指していた。路地を入って行くと、見慣れた茶色いビルが見えてきた。